1.)
午前7時30分起床。これを開けっ放しにしていると正面のホテルから室内が丸見えになってしまうから、夜は必ず閉じておくようにと伯父に言われたシャッターをスイッチ一つで開けると、そこにパリの街が見えるというのには、パリに旅行に来ているのだから当たり前だとはいえ、ああ、今自分は海外旅行をしているのだなぁという実感を湧かせられる。天気も晴れていて、昨日の雨を思うと嘘のようだ。
伯父たちはまだ目覚めておらず、朝食も8時くらいからだと前夜に聞いていたので、居間で新聞を読んで待つ事にする。といっても、仏語の新聞、例えばフィガロ(Le Figaro)やル・モンド(Le Monde)ではなくて、仕事がら日本の情報も必要なので伯父の家には朝日新聞・読売新聞・日経新聞の3紙が届くようになっているのだ。パリの朝に日本の新聞の朝刊を読むというのは、何だか面白いものである。
しかし、フランスの代表的な新聞を列挙しようとした時、"ル・モンド" とは普通に言うけれど、"ル・フィガロ" とはあんまり言わないよな。もちろん正式には「ル」が付くのが正しい読み方なわけだが、正しいとか正しくないとかは関係なく、冠詞は付けないのというのであれば、ル・モンドも "モンド" と呼ばねばならないはずで、この辺、基準が不統一である。そんなのどっちだっていいじゃないかと思われる方は多かろうし、事実、私も結局のところはどっちでもいいやと思っているのだけれど、何だかそんな事が気になってしまった朝であった。
そうそう、もちろん、伯父のところでは "ル・モンド" も "フィガロ" も購読しているので居間に置いてある。私には読めやしないけれど。
2冊あるから1冊あげるよと言われ有り難く頂戴したアルザス地方の写真集『LES PLUS BEAUX VILLAGES D'ALSACE』も、解説の文章のフランス語はまるで分からないけれど、こちらはふんだんに掲載されている写真を眺めているだけで充分楽しいから、ル・モンドやフィガロとはちょっと違う。しかし、こういうのを見ると、アルザス地方にも旅行で行きたくなってくるな。
朝食は、サラダとクロワッサン、ゆで卵にヨーグルトである。実に朝食らしい、そういう意味では珍しくも何ともないメニューであるが、これがなかなか美味しい。「パリでの朝食」という状況設定が良い調味料になっているというのは、あるだろうにせよ。
今日は伯父が車を出して案内してくれると言うので、パリの南南東方向に位置し、世界遺産にも認定されているフォンテーヌブロー宮殿(Chateau de Fontainebleau)と、ミレー(Millet)がアトリエを構え「落穂拾い」や「晩鐘」を描いた事で知られるバルビゾン村(Barbizon)に行く事になっている。
何せ日曜日だし、夕方にはパリに戻って来るような段取りで考えないと高速道路の渋滞がひどいからという事で、9時過ぎに出発。コンコルド場広場からコンコルド橋(Pont de la Concorde)でセーヌ(Seine)川を渡り、ラスパイユ大通り(Boulevard Raspail)を走ると、途中、中央分離帯というか、通りの真ん中に様々な出店が並んで朝市が開かれているのに遭遇した。ははぁ、これが有名なパリの朝市の一つ、ラスパイユ市場(Marche Raspail)という奴か。
市場には人が多いし興味もあったが、フォンテーヌブローに行かなければならないので車を駐車している暇はないから、残念だけれどもここはそのまま通過。出店の裏手から見る限りだと、パンや肉・魚、チーズなどの店もあるようだが、どうも野菜や果物の店が多そうだ。帰国後にちょっと調べたところ、ラスパイユの朝市の中でも日曜日に開催されるものは、無農薬・有機栽培の野菜・果物が充実している事で有名なよう。パリ市民はスーパーなどで買わずにこういう市場で食材を買う事が多いようだとは伯父の言。
カタコンブ(Catacombes)の入口があるダンフェール・ロシュロー広場(Place Denfert Rochereau)でジェネラル・ルクレール大通り(Avenue du General Leclerc)に入り、ポルト・ド・オルレアン(Porte d'Olreans)からリングに乗った。ところで、このポルト(Porte)というのは「門」という意味なわけだが、これは、かつてパリ市境界線の城壁の門がここにあった為という事で、つまり現在のリングはこの境界線城壁に沿うように出来ているわけか。ともあれ、リングに入って半時計回りに1qも走らないところで、高速道路A6号線に入る。
フランスの高速道路というと、何となく全部有料というようなイメージがあったのだけれど、どうやらそれは私の思い込みで、パリ近郊など無料区間もあるようだ。で、無料区間から有料区間に入るところで、標識が出てくるという仕組み。フォンテーヌブローまでの区間は、無料である。それにしても、物流の主役たるトラック・トレーラーの姿が無いなと思ったら、日曜日はトラック関係の運行� �禁止されているのだという。労働時間35時間の時も思ったが、そういった労働環境に関する事は厳しいな、フランスは。
フォンテーヌブローまではおよそ1時間かかった。町自体はそれほど大きなものではないようだが、何と言ってもここは先にも書いた宮殿が凄く有名だ。城の正門前がちょっとした駐車スペースになっているのだけれど、さすがに晴天の日曜日だけあって、ここは既にいっぱいだ。しかたがないので、柵沿いに2〜300mほど離れたところ、カフェレストランの前に駐車する。
それにしても前後幅も少ないようなところに、上手く縦列で駐車するものだ。こちらで暮らす以上、これくらいは必須テクニックだと伯父は言う。それはそうだろうなと思うのは、日本とは違ってこちらでは、町中に入ると、ちょっと� �めの道の両サイド(あるいは片サイド)は駐車スペースになっていて、皆そこに縦列に車を駐車していくからで、我々の想像する店舗駐車場みたいなものは、もしかしたら郊外のロードサイド型の大型店舗くらいにしかないのではないだろうか。あくまでも私の勝手な予想ではあるが。
何にせよ、私には、こんな狭いところでの縦列駐車は、絶対できないとは言わないまでも、かなり難しい。伯父のように2回ほど切り返して綺麗に収める事などできないで、5〜6回、下手をしたら10回以上も切り返して、ようやく何とかかんとか見られるくらいに駐車ができるのではないだろうか。こういうのも慣れの問題だとは分かっているが、これができるというだけでも、尊敬しいてしまうそうである。
ともあれ、フォンテーヌブロー宮殿 だ。フランスで宮殿というと、どうしてもまずヴェルサイユ(Chateau de Versailles)、それからルーヴル(Palais du Louvre)が思い浮かぶが、このフォンテーヌブローも、決して外す事のできない名所だ。
門をくぐってすぐ正面奥に有名な「馬蹄型の階段」があり、その左右から手前に向けて冂の字のように翼が伸びているのは、先に例に挙げたヴェルサイユやルーヴルと同じ構造で、この手の宮殿について良く知っているわけではないので断定してしまう事はできないのだが、もしかしたらこれが定番の様式なのだろうか。青空と秋の陽射しに映える宮殿の姿は、かなり美しい。
このフォンテーヌブロー宮殿はフランス王家がここの森での狩を楽しむために建てた城館が元になっており、13世紀の聖王ルイ(Saint-Louis)も好んでここを訪れたとの事。ルネッサンス期に入ってからは、16世紀のフランソワ1世(FrancoisT)の時代から19世紀のナポレオ ン3世(NapoleonV)にかけて、歴代の王・皇帝がこの宮殿に増改築を繰り返し、現在のような形ができあがったらしい。興味のある方は、フォンテーヌブロー城美術館(Musee National du Chateau de Fontainebleau)のサイトをご覧になってみるのも、いいかもしれない。当然、表示がフランス語だけれど。
ミシュランのガイドブックを片手に伯父が説明してくれたところによると、一番古い部分は正面の館の陰になっていて見えないのだが、ここから見える3つの翼館の中では、「馬蹄型の階段」に向かって左のものが一番古いとの事。ここは庭も綺麗な事で知られているのだが、まずは何はともあれ宮殿内部の見学をという事で、前述の美術館の中に入る。入口は、右翼の「ルイ15世の翼館」中程である。
"あなたのトラック運転手の名前を見つける方法"
美術館のチケット代金は4ユーロ。入ってすぐの所に、ナポレオン3世が1867年のパリ万博で買い付けたという、「芸術家」と題されたステンドグラスがある。19世紀後半のものだから、ステンドグラスとしてはあまり見るべき価値はないと伯父は言うが、どうして、かなり綺麗なもので、いい感じである。
セーブルの絵皿128枚を壁に展示した「絵皿の回廊」を抜けると、奥にある「王の住居棟」に繋がる、フランソワ1世が作った長さ60mの、その名も「フランソワ1世の回廊」に入る。ヴェルサイユで見た「鏡の間」と比べると地味だが、通常の感覚で考えれば充分以上に豪華なこの回廊の壁面は、数々のフレスコ画と彫刻で飾られ、� ��た随所にフランソワ1世の紋章である火トカゲ(サラマンデル)とフランス王家を表す3つの百合の紋章、それとフランソワの "F" の文字が装飾されている。王を讃える内容のフレスコ画は一つ一つにそれなりの意味があるようで、伯父がミシュランのガイドブックを見ながらその幾つかを説明してくれる。
話は逸れるが、自動車などのタイヤメーカーであるミシュランがレストランやホテルに星幾つというような格付けをし、また旅行のガイドブックなどを作成するようになった理由というのを御存知だろうか。まぁこれは単純なものなので、知らなくてもおおよその見当は付けられる事と思う。そう、これらのガイドを見た人達が旅行意欲を掻き立てられて自動車でバカンスなどに出かければ、必然的にそのタイヤは磨耗し、その結果新しいミシュランのタイヤを購入してくれる、と、こういう意図なのだそうだ。「風が吹けば桶屋が儲かる」よりはよっぽど� �果関係がしっかりしているし、案外、そもそもこの企画を立案した人間が、旅行好き・外食好きだったのかもしれない。
それはさておき、「フランソワ1世の回廊」を通り抜けて「衛兵の間」に進む。ここにあった壺の装飾が傑作で、フォンテーヌブローに伝わる伝承で飾っているというのだけれど、片面にはレオナルド・ダ・ヴィンチがフォンテーヌブロー宮殿内で「モナリザ」を書く様子があって、実際にはそんな事実は一切無いというから、つまりは宮殿の格を上げる、即ち、そこにいる国王の威厳を高める目的で作られた逸話なのではあるまいか。だとすれば、この辺りは、自分は有名人の誰それと知り合いなんだと言って自らも重要人物なのであるとアピールしたがる浅薄な輩と、何ら変わらないな。
その奥の「舞踏� ��の広間」は、フランソワ1世の息子であるアンリ2世(HenriU)が建設させたというもので、全体的にピンク(薔薇色と言うべきなのだろうか?)の色調のイメージが強い、広い部屋である。非常に凝っている格間天井を始めとして、部屋のあちこちにはアンリの頭文字の "H" と、その愛人であるディアンヌ・ド・ポワチエ(Diane de Poitiers)の "D" を組み合わせた装飾で飾られている。
この装飾、どんな物といって説明しにくいのだが、"H" の両端の両端の縦棒を "D" の縦棒に見立て、それぞれから内側に向けて "D" の弧を描かせた形になる(ほら、分かりにくい説明になってしまった)。ちなみに、ここがアンリ2世の頭を働かせたところで、イタリアの名門から嫁いで来た正妻のカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Medicis)に対する言い訳として、これは "H" と "C" の組み合わせなのだよと言えるように、"D" の縦棒を "H" の縦棒に重ねたという事らしい。まぁ、アンリ2世の本心がどこにあれ、表向きは、アンリとカトリーヌの組み合わせという事にしていたのだろう。
「エタンプ公妃の寝室」あるいは「国王の階段」と呼ばれる部屋にあった「自然」と題された大理石像がまた面白いもので、もともとは受水盆支えだったものらしく、伯父の語るミシェランによると自然の豊穣なる恵みを表しているとの事なのだが、なんでこうも全身乳房だらけなのだろう。いや、言わんとするところは、良く分かる。良く分かるのだけれど、私はこれを目にした瞬間、犬猫の授乳やホルスタインの搾乳を思い出してしまってしょうがなかった。美しいとか、あるいはその逆にグロテスクだとかいうよりはむしろ滑稽なくらいで、もしかしたらフォンテーヌブロー宮殿� ��で私が一番気に入ったのは、この大理石像かもしれない。
「ディアナの回廊」はナポレオン3世によって図書室に改造されて、現在も16,000冊の蔵書が残っているそう。16,000冊と文字で書く分には非常に気楽なものだが、実際にここにある本の全てをナポレオン3世は読んでいるのだろうか。ちなみに、この回廊の入口付近にある地球儀はナポレオン1世が実際にパリのチュイルリー宮殿(1871年に焼失)で使用していたものだとの事。時の権力者と大きな地球儀という組み合わせは、どうしてもチャーリー・チャップリンの映画『独裁者』を思い出させる。もっとも、あれはナポレオンではなく、アドルフ・ヒットラーを皮肉ったものだが。
「王妃の遊戯室」はマリー・アントワネットのサロンだった部屋で、肘つきの椅子が王と王 妃、普通の椅子がその次に偉い大公妃、貴婦人用にはスツールで、男性諸君は座らずに立っていたというように、家の格式その他で厳密に区分けされていたそう。「玉座の間」にはナポレオン1世の玉座が置かれ、その左右には彼を象徴する羽根を広げた金の鷲と、"N" の文字のついた飾り柱が玉座の上からかかる幕を支えている。この幕の図柄になっている昆虫が、(はっきりとは分からないのが)蝉のようで、ナポレオンと蝉とに何か関係があるのかと、ちょっと不思議に感じた。
それにしても、フランソワ1世にしろアンリ2世にしろナポレオン1世にしろ、自分の頭文字を(しかも飾り文字とかいうわけではなくてアルファベットそのものを)装飾に使うというのは、ひどくシンプルだ。日本の花押なんかとは、随分と違うな。が、考えてみれば、現在のルイ・ヴィトンなんかだって同じような事をしているのだから、これはもう、文化的、伝統的にそういうものなのかもしれない。
元の場所の方に戻ってきて、「馬蹄型の階段」の向かって左にある「三位一体礼拝堂」も豪華で綺麗なところ だ。祭壇の左右にあるシャルルマーニュ(Charlemagne)と聖ルイの像の顔が、それぞれアンリ4世とルイ13世になっているのは、御愛嬌というものだろう。王族は先の「フランソワ1世の回廊」入口脇にある扉から入る2階のテラス席で参列し、その他の者は1階で、というのは、王権神授説なんて理論が成り立っていた封建制度の時代であった事を考えれば、まぁむしろ当たり前か。
土産物コーナーで日本語のガイドブック(7.5ユーロ)を買って、外へ出た。あんまりゆっくりとしていられる時間はないのだけれども、一応庭も見ておこうという事で、「馬蹄型の階段」右側からそちらへ回る。
まず出たのが「泉の中庭」というところで、中央に東屋が浮かぶこの池は「恋の池」という名前なのだと伯父が言うので、これはまたロマ� �ティックな名前を付けたもんだと思ったら、これが私の勘違い。実際は「鯉の池」だそうで、アンリ4世がこの池に60匹の鯉を放した事からこう呼ばれるようになったとの事。
続いて出た「大花壇」はいわゆるフランス式の庭園で、幾何学的に区画された様が美しい。ここの奥にはヴェルサイユの庭園と同様に運河がまっすぐ1,200mあまりも伸びている。運河のところまで歩いている時間的余裕がないので遠目に見ているだけだが、それでもその長さは実感できる。そしてまた、この「大花壇」のところから見る宮殿の建物が、美しいのだ。「鯉の池」ごしに見える様をして、伯父は「これが一番フォンテーヌブローらしい感じだ」と、デジカメで撮影をしている。
とりあえず次の目的地のバルビゾン村についてから昼食にしよう と伯父が言うので、名残惜しいがフォンテーヌブローの庭とはこれでお別れだ。「泉の中庭」に戻るところで、観光客を乗せた馬車が帰ってくるのにでくわした。なる程、こういうのに乗って庭を見て回るというコースもあるのだね。
宮殿内には「ナポレオン1世博物館」なんていうものもあるようだが、それは見ずに、それでも最後に、ここに来た以上はコイツを外すわけにはいかないと、ワーテルロー(Waterloo)の戦いに敗れこの宮殿で退位宣言に署名させられたナポレオン1世が、エルバ島に流刑になる際に親衛隊のそれまでの忠誠に対する感謝と自身のフランスに対する愛情とを語る惜別の辞を述べたという、「馬蹄型の階段」の上に登って記念写真を撮り、私達はフォンテーヌブローを後にした。
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2.)
ビーバーフォールズPA茶
バルビゾン派の代表的な画家といえば、やはりジャン・フランソワ・ミレー(Jean-Francois Millet)やテオドール・ルソー(Theodore Rousseau)といった辺りになるのだろう。彼らはバルビゾンの森と素朴な田園風景を愛し、屋内のアトリエから野外に飛び出して平凡な田舎の風景や森林を写実的に描き、また彫刻にした。後の印象派にも大きな影響を与えたとされる彼らのアトリエが記念館として残っているバルビゾン村は、他に見物というほどのポイントもない小さな村だが、フォンテーヌブローから西北におよそ10qほどの距離であり、観光ツアーでしばしばあるように両者をセットにして回るというのは、良いプランだと思う。
距離だけで考えれば、おそらく、森の中を抜けていくような道を通った方がバルビゾンへは近いのだろうけれど伯父はその道を知らないというし、それで迷ったりしたら元も子もないので、遠回りを承知で分かりやすく太い道を行く。で 、村に向けてそれを逸れた辺りから、いかにも農村という雰囲気が漂ってきて、麦はもうとっくに刈り取られて畑はすっきりとしてしまっているから、さすがに『落穂拾い』や『晩鐘』という感じではないが、こういう風景をミレーは見ていたのだなと思うと面白い。バルビゾン村自体はやや観光化されてきてしまっているとは聞くが、畑の景色はさすがに当時とそんなに変わらないだろう。何しろ相手が19世紀中頃の話だから、機械化が進んだとか、そういう事はあるだろうが。
日曜日の晴天という事で、フォンテーヌブローに続いてここでも村の中心の駐車場はいっぱいだ。なので、村の中の細い道を抜けて、やや森よりのところでスペースを見つけ、そこに駐車する。とはいえ、それでも前後は車で埋まっていて、これは今日の バルビゾン村はかなりの人出のようだ。
とりあえず村の目抜き通りに出ようという事で歩き出したのだが、パリの街並みと違い、こういうフランスの普通の田舎町の景色というのも、実にいい感じである。
村で一番の大通り……と言っても道幅もさほどには無いのだけれど、ともあれそこに出たところ、通りは良くキャンプ洋品店で見るような折りたたみ式の大きな机や椅子で所狭しと埋め尽くされ、肉を焼いたりチーズやパンを切り分けたりと、各種の屋台が出ていて大変な賑わいであった。日曜日だからこうなのかな、観光客を楽しませる為に歩行者天国(なんていうモノがフランスにもあるかどうかは知らないが)にでもして村を挙げてサービスしているのかなと思ったら、さすがにそれは無くて、伯父が聞いてみたと� ��ろ、今日は村祭りの日なのだという。
2000年にベルギーで長姉結婚式に出た帰りに立ち寄ったパリでも、また2002年にその長姉のところに遊びに行った時もリューベン(Leuven)のフェスティバルに遭遇したし、何だね、私が海外旅行に出かけると、どうも狙わずして偶然に何かのイベントに出くわす事が多いようだ。運がいいというか何というか、日頃の行いが良いのだと自惚れてしまってもいいのだろうか。
先ずは昼食をと伯父が連れて行ってくれたのは、日本の女性誌(雑誌名は覚えていないとの事)にも紹介されたというサラダとクレープの店、"SALLE AVEC CHEMINEE" だった。日本語に訳すと、"煙突のある小部屋亭"とでもなるのだろうか。天気もいいことだからと、ここの店内ではなくて、中庭を横切って階段を登った先のテラスで食べる事にした。
クレープと伯父が言うものだから、てっきり日本でも観光地なんかで良く屋台が出ているような甘い生地のもの(それだったら、以前にベルギーのブルージュ(Brugge)でも食べた事がある)を想像していたのだが、メニューを見てみると、どうも様子が違うようだ。伯父に聞くと、ここで出すのはクレープとは言っても小麦粉ではなくて蕎麦粉で作るもので、フランス北西部のブルターニュ地方(Bretagne)の伝統的な庶民の食べ物、ガレット(Galette)と呼ばれるものなのだとの事。
物は試しという事で、現地産のハムとトマト、チーズ� �入ったもの(8.5ユーロ)を注文する。伯父は卵とハムのもので、こちらの値段は失念してしまったが、それに加えて私はエビアンを、伯父は「ガレットにはこれが合うんだ」と言ってシードル(Cidre 〜低発泡のリンゴ酒)の小瓶を注文。車を運転しているのではなかったのかという突っ込みは、この際、しないでおいてもらいたい。低アルコールだし。
ちなみに、蕎麦に含まれるルチンという栄養素は血圧を下げ糖尿病の予防にも効くという事であり、またこのルチンはビタミンCと一緒に摂取する事で吸収が促進されるらしいから、私はアルコールが苦手なので味の相性は分からないけれど、そういった健康という観点からも、この組み合わせは絶妙らしい……というのは、あくまでも聞きかじった知識なので、真偽の程の裏付けは取っていないのだが。
フランスで普通にレストランに入ってしまうと、とにかくゆっくりと会話を楽しみながら食べるのがスタイルだから、ランチタイムだろうが何だろうが、平気で1〜1.5時� �はかかってしまうもので、それを避ける為に、ほとんど待たせずに物を出してくるこういう店に来たのだと伯父は言ったのだが、そこは村祭りで人が多い影響なのか、ガレットが出てくるまでに30分程かかってしまった。味は美味しかったのだが、これはちょっと計算外だ。
胃袋も充たした事だし、表通りに出てブラブラと散歩をする。バルビゾン村にはバルビゾン派美術館(Musee de l'Ecole de Barbizon)というのもあるのだが、さほど見るものもないし、ここは村を歩いて雰囲気を味わうのがいいと伯父。
"SALLE AVEC CHEMINEE" の横にはちょっといい感じの小さな教会があって、どういう謂れがあるのか、その前にはバイキングの男とおぼしき胸像があるのだけれど、その隣がルソーのアトリエなのだそう。
それにしても、村祭りは良い感じに盛り上がっている。道端に画用紙を何枚も貼り付けたボードが並んでいて、そこに人々が脇の机に備えつけられた水彩絵の具で思い思いの絵を描いているのが、いかにも芸術家の集ったバルビゾン村っぽい。
道沿いにあったレストラン兼ホテルの建物が、いわゆるハーフティンバー(Half Timber)、柱や梁を木組みしてその間を漆喰で固めた古風な造りで、いかにも田舎屋っぽい感じで綺麗だったり、昭和天皇がこの地を訪れた時に昼食を採って行ったというレストランがあったり、ガラクタを並べたフリーマーケットがあったりと、ひとしきり通りを見て回ったところで、車に戻る。先に書いたが、夕方前にパリに戻るようでないと、高速が渋滞してどうしようもなくなってしまうのだ。
それに、伯父は今日、叔母を駅まで送っていく約束になっている。叔母は勿論、基本的には伯父と一緒にパリに住んでいるのだけれど、フランス語の特訓の為にパリの南西200kmくらいのところにあるトゥール(Tours)の街の語学学校に通っているのだ。もちろん、毎日パリから通うのには無理があるので、トゥールに下宿を借りている� ��であり、明日からまた授業があるから、今日のうちに下宿に戻るのだという。
不況時代のダイニングセット
そんなわけで高速A6号線を戻ってパリのポルト・ド・オルレアンに戻ったのが午後4時頃。幸い渋滞には合わずに済んだが、さすがにこのまま伯父の家に帰るのにはちょっと時間が早いので、遠回りしてパリの街を案内してくれるという。
ジェネラル・ルクレール大通りを走るのは朝と同じだが、ここから伯父は Rue d'Assas から Rue Guyemer、Rue Bonaparte というルートでパリ市民の憩いの場リュクサンブール公園(Jardin du Luxembourg)の横を通り、サン・シュルピス教会(Saint-Sulpice)の前を抜けてサン・ジェルマン・デ・プレ教会(Saint-Germain des Pres)の正面に駐車した。
サン・ジェルマン・デ・プレ教会はパリを代表する教会の一つで、典型的なロマネスク様式の鐘楼を持つ美しい建築だ。伯父によると、サン・ドニの大聖堂に移る前は、ここが王家の墓所だったそうで、歴史的には6世紀にまで建造が遡れるらしいので、相当に古い、伝統のある教会だという事になる。
入り口から入って振り向くと上にはパイプオルガン。教会建築の歴史には疎いが、大体この位置(入口上部)がオルガンの定位置なのだろうか。現役の宗教施設らしい静かな雰囲気で、入ってすぐのところには色上質紙に各国語で教会の説明がプリントされたものがあるのだけれど、日本語のものが見当たらない。以前はあったと伯父は言うので、多分、今は切らしているのだろう。自動販売機と いうわけではないが、一応、この説明チラシを貰っていく者は0.1ユーロを支払ってくれというシールが貼ってある。野菜の生産者直売所みたいな感覚だが、教会で代金をごまかすような不心得者もいないのだろうから、これはこれでいいのだろう。
教会の作りというのは、大体において西が入り口で祭壇は東の方に作られているのだと伯父。それって、聖地エルサレムの方向に祭壇を作っているという事なのだろうか。もちろん、厳密に言えばパリから見たエルサレムは真東にあるわけではないのだけれど、イメージとしては、やはり日の昇る方向、東に聖地があるという感じだろうから。
側廊から後陣の集歩廊をぐるりと回って外に出る。サン・ジェルマン・デ・プレ教会の正面には、ヴェルレーヌやランボー、ヘミン� �ウェイなどが通ったという有名なカフェ、レ・ドゥ・マゴ(Les Deux Magots)があるので、少しだけそれを見物に行く。店名の由来になった二つの中国人形は店内にあるというので、扉を開けてそれをちょっと覗き、車に戻る。
ドゥ・マゴと言えば、渋谷の Bunkamura にこれの海外業務提携店第1号のレストラン、Les Deux Magots Paris がある。以前、ザ・ミュージアムでルネ・マグリット(Rene Magritte)展を見た時に立ち寄った事があるように記憶しているが、味などの情報はあんまり記憶していない。ケーキと紅茶を頼んだはずだが、さほど印象的ではなかったという事か?
サン・ジェルマン・デ・プレ教会から Rue Bonaparte をそのままセーヌ川まで出たが、セーヌ左岸沿いの Quai Malaquais に接する左側が、ちょうど国立美術学校(Ecole Narionale Superieure des Beaux-Arts)、いわゆるボザールになる。日本で言えば上野の東京芸術大学になるのだろうが、こちらは美術系だけで音楽に関しては別に、パリ北東部ラ・ヴィレット(La Villette)のミュージック・シティ(Cite de la Musique)に、パリ国立高等音楽院、コンセルヴァトワール(Conservatoire de Paris/Conservatoire national superieur de musique)がある。ボザールもコンセルヴァトワールも、入学するには相当の実力が必要とされ、ここの学生であるという事は一つのステータスだ。
ここを左折してセーヌ沿いにコンコルド方向に向かうのだが、ここからは一区画進むごとに通りの名前が変わるような状態なので、逐一それを書くのは止めておく。
オルセー美術館(Musee d'Orsay)の横を通過する辺りで、3台ほど前に上階がオープンになっている黄色い2階建てバスがいた。シティラマ(Cityrama)社がパリ市交通公社等と提携して運行している市内観光バスのロープン・トゥール(L'Open Tour)がそれで、4つのコースを回っており、2日間有効のフリーパスもあるらしい。
で、これの2階最後部に乗っているカップルが、パリ観光ですっかり浮かれ気分になっているのだろうけれども、後ろ向きに立ち上がっているばかりか、ちょっと下手をしたらそのまま転落してしまいそうな程に身を乗り出して後方の車に手を振ったりしているのが、正直、舞い上がり過ぎという感じだ。
と、思っている端から、通りの上に張り出した並木の枝に後頭部をしこたま強打されて2人はうずくまる。言わんこっちゃ無い、"旅の恥はかき捨て" 等と考えず、旅行気分で道化るのも程々にしないと駄目だという良い教訓なのかもしれないが、再び立ち上がった彼らがそれでも後方に手を振っているのが、照れ隠しなのか、それとも単に懲りるという事を知らない馬鹿なのか。ある意味、根性が入っているな。
ロープン・トゥールはコンコルド橋で右岸に渡ったが、私達はもう一つ先まで左岸を進み、アレクサンドル3世橋(Pont Alexandre V)を渡り、伯父の家に帰った。
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3.)
トゥールに戻る叔母を送る伯父の車に私も同乗して、今度は右岸側からアレクサンドル3世橋を渡る。ウェディングドレスとタキシードという、いかにも結婚式でございますという格好をしたカップルが3組、カメラマンと一緒に橋の上に立っているのは、結婚写真の撮影だそうで、ここは名所なのだという。確かに、セーヌにかかる橋の中で一番美しいとも言われるこの橋から見るエッフェル塔は美しいから、それをバックに撮る写真が定番になるというのは良く分かる。長姉の結婚の時も、1日かけて結婚アルバム用の写真を撮影したものだが、ベルギーの隣国フランスでも、そういう習慣があるのだろうな。
アンヴァリッド大通り(Boulevard des Invalides)を通ってモンパルナス駅(Gare Monparnasse)に行く。この辺りは駐車禁止区域で警察も違法駐車には厳しいいから、伯父が叔母をホームまで見送りに行く間、車を見ていて、もしも警官が寄ってきたら、すぐに運転手が帰るからと答えてくれと伯父に頼まれたのだが、ちょうどシャルル・ド・ゴール空港行きのエールフランス(Air France)のリムジンバス乗り場そばに空き駐車スペースがあったので、そこに車を入れた。伯父に教わったあやしげなフランス語で喋る必要が無くなって、ちょっと一安心というところ。
列車に乗り込むまで見送るつもりだが、ホームに列車が入るまではまだ少々間があるという事だったから、ついでに一人でモンパルナス駅辺りを軽く歩いてみた。
とりあえず、登るとかそういう事は一切関係無しに、パリ随一の高層建築であるオフォスビルのモンパルナス・タワー(Tour Montparnasse)を写真に収めておこうと R.ドトリ広場(Place R. Dautry)に出てみたところ、そこにはメリー・ゴー・ラウンドが設置されていて、その周りでは恋人たちが石段に腰掛け、横手の屋台で買ったジェラートなど食べながら思い思いに語り合っている。ちなみに帰国後兄に聞いてみたところ、彼が行った冬には、ここはスケートリンクになっていたとの事。なる程。
駅ビルから歩道側に張り出した空中回廊の先にある円筒形のエレベーターが何だかいい感じだったのでそれも写真に収めた辺りで、伯父が帰ってきた。まだ夕食まで時間があるし、どこか行きたいところはあるかと聞かれ、今回の観光予定にも入れていないし、まだ行った事も無いので、ブローニュの森(Bois de Boulogne)に行きたいと答える。
もう夕方だし、別に森の中を散歩したいとかそういうわけではなく、ただどんな感じかをこの目で見てみたいのだ。それに、あそこにはテニスの全仏オープンの開催地であるローラン・ギャロス(Stade Roland Garos)と、競馬の凱旋門賞が行われるロンシャン競馬場(Hippodrome de Longchamp)がある。
アンヴァリッド大通りを戻って右手にアンヴァリッド(Hotel des Invalides)の金色のドーム屋根を眺めながらトゥールビル大通り(Avenue de Tourville)を行けば、陸軍士官学校(Ecole Militaire)とシャン・ド・マルス公園(Parc du Champ de Mars)で、そこから公園の2本横を沿うようにシュフラン大通り(Avenue de Suffren)を通ってセーヌ川沿いに出る。しばらく川沿いの南西に下りると、右手には白鳥の小道(Allee des Cygnes)と、その先端にある自由の女神の縮小像が見える。ミラボー橋(Pont Mirabeau)を渡ってミラボー通り(Rue Mirabeau)からモリトール通り(Rue Molitor)を行けば、その先の右手がローラン・ギャロス、そしてブローニュの森である。
車の窓越しにローラン・ギャロスのメイン・スタンドを見る。2003年に杉山愛がダブルス優勝したのは、ここか。そのまま柵沿いに走っていくと、奥の方のサブコートでテニスをプレイしている人達がいた。市民に有料あるいは無料で開放しているコートがあるのか、それともプロやジュニアの選手がコーチと練習をしているのか、それは分からなかったが、ローラン・ギャロスでテニスをするとは、羨ましい話だ。
ブローニュ門(Porte de Boulogne)のロータリーで、右に曲がるポイントを一本間違えて手前の道に入ってしまったが、それならそれでどこかで左に曲がればいいと進んでいて到達したロンシャン競馬場と市街中心方向をつなぐ道は、パリに向かう車線が、信号を止めた上で警官が出てきて交通整理をしなければならないほどの渋滞になっていた。これも晴天の日曜日の影響で、郊外に遊びに出ていた人達が帰ってきているものらしい。
そこに住んでいる住人が必ずしも地元の観光名所について良く知らない(例えば私は横浜市民だが、中華街の事なんかを聞かれても、さっぱり分からない)事がしばしばあるものだが、パリ市民も休日にわざわざパリ市内の観光名所で遊んだりはせずに、郊外に出るものなのだろうなと納得しつつ競馬場正門に着いたら、ここ の駐車場が、もう一部の隙間も無いほどにいっぱいになっているではないか。どうやら、今日はここで競馬が催されていたようだ。なる程、それもあるから、余計にあの渋滞になるわけか。
このまま渋滞に巻き込まれて帰るのも面倒なので、それは避けて森の中をぐるっと迂回し、O.E.C.D.(経済協力開発機構)本部前のコロンビィ広場(Place de Colombie)から Avenue Geroges Mandel を使ってトロカデロ広場(Place du Trocadero et du 11 Novembre)に出て再び駐車。車で移動していると、さすがに早いな。これなら歩いて同じコースをたどっても、そんなに時間がかからないのではなかろうか。ちなみに、今回教わるまで知らなかったのだが、パリの交差点や辻には必ず通りの名前を書いた青いプレートが付いているそうで、道に迷ったらまずそれを見て、現在地を確認するといいとの事。
前回ここに来た時にも思ったのだが、シャイヨー宮(Palais de Chaillot)からセーヌごしに見るエッフェル塔(Tour Eiffel)は相当に綺麗である。建設時には鉄骨むき出しの姿に随分と反対意見も出たらしいが。夕陽に染まるエッフェル塔を眺めていて、これは、今回の旅行中に必ず登ってやろうと、心に決める。
クレベール大通り(Avenue Kleber)で凱旋門に出て、世界で一番難しい交差点と言われるシャルル・ド・ゴール広場(Place Charles de Gaulle)のロータリーを実体験(といっても、私がハンドルを握っていたわけではなく、伯父が運転していたのだが)。車線などないし、右に抜ける車、その逆に右から入ってくる車、目的の通りに行く為に斜めに横切っていく車など、まるでカオス状態で、もう、隙間を見つけたらそこに多少強引でも割り込んでいくくらいでないと、ここは抜けられないのではないか。
シャンゼリゼを通って伯父の家に戻れば、とりあえず夕食である。
伯父が夜のモンマルトルを案内してやろうという。サクレ・クール寺院(Basilique du Sacre Coeur)は後ほど別の日に一人で行こうと思っていたところではあるが、夜の闇の中、あの白亜のドームがライトアップされて浮かび上がる様はさぞ綺麗だろうと思い、是非にとお願いする。さすがに一人では危なくて、夜にあっちに行こうとは、思えないものな。
車でモンマルトルの丘を登ろうと思う場合、メトロ等で行く時のように表側(南斜面)からではなく、裏側(北斜面)からのアプローチになる。この旅行記をご覧いただいている方に、私がどこをどのように通ったのかが分かりやすいように、パリの地図を手元にコースが追えるようにと、なるべく通りの名前を書いてきている私だが、この時のコースは夜だったという事もあって、ちょっと曖昧だ。サン・ラザール駅(Gare Saint-Lazare)から北に延びている線路とモンマルトル墓地(Cimetiere de Montmartre)の上を通った覚えがあるので、おそらくマドレーヌ教会(La Madeleine)のところからマルゼルブ大通り(Boulevard Malesherbes)、バティニョル大通り(Boulevard des Batignolles)、コーランクール通り(Rue Caulaincourt)と来て、最後にラマルク通り(Rue Lamarck)に入ってモンマルトルという流れだと思われる。
ラマルク通り沿いの駐車スペースはぎっしりと埋まっていて、なかなか場所が無い。石畳の坂道を登っていく内に、とうとうサクレ・クールの正面まで来てしまったが、ここで幸運にも、ケーブルカーのフニクレール(Funiculaire)乗り場前に一台分のスペースを発見。これはベストポジションと言っても良いだろう。
サクレ・クールはパリ北部の丘の上に燦然と輝くビザンチン・スタイルの教会で、地盤の問題もあって建設は難航したらしい。事前に想像していた通り、夜の闇の中にライトアップされる姿は、もの凄く美しい。
中に入る。真正面、内陣の天井にある青色基調のモザイクが実に綺麗だ。この時間でも多くの人々が祈りを捧げており、夜だという事もあ� ��て、とんでもなく静謐で厳粛な雰囲気をかもし出している。祈りの邪魔にならないように音を立てずにゆっくりと後陣に回り込み、柱の間から見える先程のモザイクに、しばし見とれる。うん、これは今晩ここに来て大正解であった。
サクレ・クールの横手からテルトル広場(Place du Tertre)へ。この辺りは昼間に来ると観光客相手の似顔絵描きが多いとの事だが、さすがに夜にはそんな自称画家の卵達もいないようだ。広場の中央にはカフェのテーブルが並んでいて、ギャルソン達が盆を手に店と広場とを行き交っている。さすがに大変な賑わいである。
夜で周囲も暗いから、モンマルトルの名所である風車などはさすがに見れないが、このちょっと先に有名なカフェがあるから、そこまでは行こうという事に。ル・コンシュラ(Le Consulat)というその名前は、日本語に訳せば「領事館」であるから、随分と立派な名前だ。実態が名前負けしているかどうかは、中に入らなかったので分からないが、とりあえず、夕食のコース料金が16.9ユーロだったという事は記しておこう。日本円にして2,300円だから、パリでの外食としてはかなり安い部類に入る。
車に戻り、サクレ・クールをぐるっと回って先程とは違う道でモンマルトルを降る。パリで唯一のものだというブドウ畑の横を通過してコーランクール通りに戻ったが、せっかくのモンマルトルなので、ここはフレンチ・カンカン発祥のキャバレーでありパリのナイトスポットの定番、ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)を見ておかなければ嘘だろうと、ロシュシュアール通り(Boulevard de Rochechouart)にハンドルを切る。
200mほど走ったところで、中央分離帯にある遊歩道の向こうにネオン輝く赤い風車が。おお、写真で見た通り(当たり前だ)のムーラン・ルージュ。南仏の名門貴族の御曹司、放蕩画家のロートレック(Henri de Toulous-Lautrec)はここに足繁く通っていたのか。
私はロートレックの作品や彼の生き様は好きだが、別にキャバレーでのナイト・ショー自体には興味は無いので今日も前を通過するだけだ。しかし、パリに来たからにはここでショーを見なければと考える観光客も多いはずで、実際、中国系らしき東洋人(大陸の人か台湾か、あるいはどこかの国の華僑の人かは分からないし、もしかしたら中国系ではないかもしれないけれど)の2人連れが遊歩道のところでムーラン・ルージュに向かって歩いていたが、これが、明らかにタチの悪いチンピラとおぼしき男にずっと纏わりつかれている。腕をつかまれ、足を絡められている方の東洋人は背広姿で、そんなところからも、こいつは金を持っていそうだぞと見当をつけられたのかもしれない� ��
2人はチンピラを相手にしないで足早に歩いていたが、良く見ると彼らを囲むように、他に3人のチンピラが微妙な距離で付かず離れず歩いている。ははぁ、さてはこいつらはグル、4人組か。からまれている方も2人連れだから、そのまま隙を見せなければまず大丈夫だろうと伯父。実際、信号の変わり目に東洋人たちは上手くチンピラを振り切って、ムーラン・ルージュの中に消えていった。大事にならなくて良かったというところだが、よもや、財布をスられていたりは、しないよな?
夜のモンマルトル界隈は、だから1人で歩いては危ないのだと伯父。まぁさすがに夜のこの辺りを1人でぶらぶらする気は無いのでそう答えたら、モンマルトルに限らず、パリのダウンタウンでの1人歩きは昼間でも気を付けなければならない… …のだけれども、その点君は絶対に金を持っていなさそうな格好をしているし身体も大きいからから大丈夫、と太鼓判を押されてしまった。体格云々はともかくとして、いくらパリの治安状況を事前に考えてわざと裾のほつれたようなカーゴ・パンツと地味な無彩色のシャツという貧乏旅行者に見えそうなを服を着てきたとはいえ、"絶対に金を持っていなさそう" とまで断言されてしまうと、何となく複雑な気分になってしまう。
ムーラン・ルージュのあるブランシュ広場(Place Blanche)からブランシュ通り(Rue Blanche)、サン・トリニテ教会(Sainte-Trinite)、ギャラリー・ラファイエット(Galeries Lafayette)と抜けてオペラ・ガルニエ(Opera Garnier)へ。例によって駐車して外から眺めるだけだが、相変わらず綺麗な建物である。
しばし見とれた後、ラ・ペ通り(Rue de la Paix)でヴァンドーム広場(Place Vendpme)へ。さすがにこの暗さ、おまけに自動車の車内からでは、広場中央の記念柱(Colonne)のてっぺんにあるナポレオン像は見えない。リヴォリ通り(Rue de Rivoli)に出て右折、コンコルド広場に出る
が、このリヴォリ通りからコンコルドという風景は、まさしくツール・ド・フランス最終日恒例であるシャンゼリゼ周回のクリテリウム(Criterium)のコースだ。
昨晩にシャンゼリゼを歩いた時にも同じような感慨を感じたが、こうなると、いつの日にか、コンコルド〜シャンゼリゼ〜凱旋門で折り返し〜コンコルド〜チュイルリー河岸通り(Quai des Tuileries)〜ルーヴルのトンネル〜リヴォリ通り〜コンコルドというクリテリウムのコースを、一度でいいからロードレーサーで走ってみたいという気にもなる。ミーハーな上にマイナーな話で申し訳ない。
そんなこんなで伯父の家に戻ったのは午後11時頃。明日は、まずシテ島(Ile de la Cite)に行ってノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame de Paris)を見、そのまま午前は右岸のマレ地区(Le Marais)を歩いてみる予定。午後は父の知人に会うという事になっているので、その辺りの予定は、まぁいきあたりばったりか?
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