カリフォルニア州の歴史(カリフォルニアしゅうのれきし、英:History of California)では、アメリカ合衆国西海岸に位置するカリフォルニア州となった地域の人類の歴史と社会活動を概説する。カリフォルニアにおける人類の活動はおよそ13,000年から15,000年前に到着したインディアン民族に始まる。
海岸や渓谷に沿った内陸部へのヨーロッパ白人による探検と開拓は16世紀に始まった。米墨戦争におけるメキシコの敗北の結果、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約により、アメリカ合衆国がカリフォルニアを獲得したことで、それまでメキシコの領土であった西部への拡張が進展し、1850年代のカリフォルニア・ゴールドラッシュによってさらに加速された。カリフォルニアは1850年にアメリカ合衆国の州に昇格した。19世紀の終わりまでに、カリフォルニアの大部分はまだ田舎で農業地だったが、既に約140万人が住んでいた。20世紀に入るとさらに人口は増加し、2000年に行われた国勢調査では、全米50州で最大の人口である3,500万人以上を抱えている。
[編集] インディアンの時代
一般に認められている南北アメリカ大陸への人類の移動に関する学説は、およそ16,500年前にインディアン民族がベーリング陸橋を通ってアメリカ大陸に入ったというもので、インディアンが、現在のカリフォルニアにいつ到着したかは不明である。
サンタローザ島のアーリントン・スプリングス人の遺跡は、最も初期にインディアンが住んだ跡であり、約13,000年前のウィスコンシン氷期(最も新しい氷河期)の頃とされている。現在のカリフォルニアになった地域には全体で約30の部族あるいは文化集団が住んでおり、恐らくは6種の言語族に分類される。これらの語族の中には最も初期に到着したホカ語族(はるか北の山岳地から南のコロラド川盆地に分布)と最近に到着した南東部砂漠地帯のユト・アステカン語族がいる。この文化の多様性は北アメリカの中でも密度が濃く、10,000年から15,000年前の一連の移民や勢力争いの結果と考えられている[1]。ヨーロッパ白人による最初の接触時、チュマシュ族、マイドゥ族、ミウォク族、モードック族、モハーベ族、オーロネ族、ポモ族、シャスタ族、トングヴァ族およびウィントゥ族など、60を超えるインディアン部族が住んでいた。
これらの部族はカリフォルニアの多様な気候に適応した。海岸の部族は、石器を使ってイガイ科貝類の殻から作られる交易用ビーズの主要生産源だった。カリフォルニアの広いセントラル・バレーやそれを取り囲む丘の部族は、早くから農業を発展させ、草地を焼いて食用植物、特にオークの木の生育を促進した。これらの木の実(ドングリ)を粉に挽き、酸性のタンニンを濾過すると食用の粉ができた。北部や東部の山岳地に住む部族はサケ漁や動物の猟に大きく頼っており、カリフォルニアの火山生成物である黒曜石を集めて成形し交易に用いた。南東部の砂漠は、過酷な環境で生き残る術を覚えた部族が住み、その土地の植物を慎重に扱い、オアシスや水源の近くで生活した。
これら全ての部族の状態は動的であり、より成功した部族がその領土を拡げ、あまり成功しなかった部族は縮小した。奴隷貿易や部族間の戦争が比較的平和な期間と交互に続いた。ヨーロッパ人による接触が広範になった1700年代には、およそ30万人のインディアンがカリフォルニアに住んでいたと推計されている。(→カリフォルニアのインディアン部族)
[編集] ヨーロッパ人の探検(1530年-1765年)
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
最初のヨーロッパ人探検家達は、スペインあるいはイギリスの国旗を掲げた者達であり、1500年代初期から1700年代半ばにカリフォルニア海岸を航海したが、ヨーロッパ人による開拓地は造られなかった。最も重要な植民地強国であったスペインはその帝国の中心であるメキシコ、ペルーおよびフィリピンに関心を集中した。太平洋に接するあらゆる陸地(カリフォルニアを含む)はスペインが領有するという自負のもとに、スペインはカリフォルニア海岸を航行する探検隊を派遣した。これら舟に乗った探検者達から見たカリフォルニアは丘の多い草地と森林の土地であり、植民者を惹き付けるに足る資源や自然の良港はほとんど無いと見られた。
当時の他の植民地帝国はより人口密度の高い地域に興味が行っており、この遠く離れた世界の一部にはほとんど注意を払わなかった。ロシアとイギリスの探検者達および毛皮交易業者達がこの地域の周縁部に入り始めたのは1700年代半ばになってからだった。
[編集] エルナン・コルテス
詳細は「エルナン・コルテス」を参照
1530年頃、ヌニョ・ベルトラン・デ・グスマン(ヌエバ・エスパーニャの統領)がインディアンの奴隷から、その通りが金や銀で舗装されているというシボラの7都市の話を聞いた。同じ頃エルナン・コルテスはアマゾネス女族が住み、金、真珠および宝石で溢れているという遙か北西の不思議な国の話に惹き付けられた。スペイン人はこれらの場所が一つで同じものと推測した。
1533年の遠征隊はおそらくはラ・パス湾のことと思われる1つの湾を発見したが、艱難辛苦した後に帰還した。コルテスは1534年と1535年に遠征隊を率いたが、求める都市は見つからなかった。
1535年5月3日、コルテスは「サンタクルス島」(現在のバハ・カリフォルニアの半島として知られる)を領有権主張し、その春遅くにラ・パスとなる都市の配置を決め建設した。
[編集] フランシスコ・デ・ウロア
詳細は「カリフォルニア島」を参照
1539年7月、コルテスはこれら伝説を新たに聞いて動かされ、小さな3隻の舟でフランシスコ・デ・ウロアを派遣した。デ・ウロアはコロラド川河口に達し、半島を回って遠くセドロス島まで航海した。
この航海の証言によって、「カリフォルニア」という名前が初めて記録された。これはガルシ・ロドリゲス・デ・モンタルヴォが編集し1510年頃に出版された騎士道物語『ガリアのアマディス』第5巻に辿ることができ、主人公は「カリフォルニア」と呼ばれる島を旅する。
[編集] フアン・ロドリゲス・カブリロ
カリフォルニア海岸を最初に探検したヨーロッパ人はスペイン帝国のために航海したポルトガル人航海士、フアン・ロドリゲス・カブリロだった。1542年6月、カブリロは現在のメキシコ西海岸から2隻の舟で探検隊を率いた。9月28日にサンディエゴ湾で上陸し、カリフォルニア島と考えた土地をスペイン領と宣言した。
カブリロとその隊員はチャネル諸島の一つサンミゲルに上陸し、次に海岸沿いにあると考えられたアジア大陸に向かう航路(北西航路)を発見するために北へ進んだ。カブリロは北のポイントレイズ(サンフランシスコの北)まで進んだと考えられるが、航海中の事故で死んだ。遠征隊の残りの隊員は、バルトローメ・フェレロに率いられて、今日のオレゴン州南部にあるログ川まで北上したと見られている[2]。
[編集] フランシス・ドレーク卿
詳細は「フランシス・ドレーク」を参照
1579年6月7日、イギリス人探検家フランシス・ドレーク卿がサンフランシスコ湾以北のカリフォルニアの某所で良港を発見し、ノバ・アルビオンと名付けイギリス領と主張した。ドレークが真鍮板を残して去ったその場所は現在不明であり、その後の追従者も無かった[3]。
[編集] セバスティアン・ビスカイノ
詳細は「セバスティアン・ビスカイノ」を参照
1602年、スペイン人セバスティアン・ビスカイノがカリフォルニア海岸を北のモントレー湾まで進み、そこで上陸した。そこから海岸に沿って陸地を南へ進み、カーメル湾と考えられる所を訪れたと記録した。カリフォルニアの歴史でビスカイノが果たした大きな功績は、モントレー湾地域を停泊地として、また定着に適した土地として記した生き生きした報告書であり、さらに海岸水路の詳細な海図であった(その後200年近くも使用された)[4]。
[編集] ヨーロッパ人の探検(1765年-1821年)
イギリス人ジェームズ・クック船長は1778年の3度目にして最後の探検航海の途中で、HMSレゾルーションに乗って北アメリカ西海岸を航海し、カリフォルニアからベーリング海峡に至るまでの全ての海岸地図を作成した。1786年、ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローがルイ16世に命じられた探検隊で1群の科学者や画家を率い、モントレーで歓迎された。彼等はカリフォルニアの伝道の仕組み、土地および人々について証言を残した。次の数十年間に貿易業者、鯨漁者および科学的任務を帯びた者達が訪れた[5]。
[編集] スペインの植民地化と統治
詳細は「アルタ・カリフォルニア」を参照
「ヌエバ・エスパーニャ」も参照
「カリフォルニア・ミッション」も参照
1697年、イエズス会宣教師団のフアン・マリア・デ・サルバティエラがバハ・カリフォルニア・スルに最初の恒久的伝道所ミシオン・デ・ヌエストラ・デ・ロレト・コンチョを設立した。カリフォルニアの土地は当時ヌエバ・エスパーニャの一部であり、今日のように分割されてはいなかった。半島におけるイエズス会の支配は次第に拡がり、最初はロレト周辺の地域だったものが、南のケープ地域、最後にはバハ・カリフォルニア・スルの北縁を越えてさらに北へ拡がった。1765年から1823年にかけてカリフォルニアにも21の伝道所が設立された。
18世紀最後の四半世紀、アルタ・カリフォルニアに初めてのスペイン開拓地が設立された。北太平洋の海岸に住む毛皮動物についてロシア、また恐らくはイギリスが抱いた興味に反応する形で、スペインはカリフォルニアの南部と中部の海岸沿いに一連のカトリック伝道所を拡張し、軍隊を伴い、牧場を造った。これらの伝道所はスペイン帝国によるカリフォルニアの領有権主張を表すことが意図された。
19世紀の最初の四半世紀、スペイン人宣教師団、牧場主および軍隊によるカリフォルニアの南部と中部の海岸の植民地化がゆっくりと続いた。1820年までにスペインの影響力はロレトから今日のサンフランシスコ湾地域の真北サンディエゴまで繋がった伝道所で表され、内陸へは伝道所からおよそ25ないし50マイル(40 kmないし80 km)の広がりを見せた。この地帯の外では恐らく20万人から25万人のが伝統的な生活を続けていた。1819年に調印されたアダムズ=オニス条約でスペインの領有権主張を北緯42度線までとすることとなり、事実上今日のカリフォルニア州とオレゴン州の州境ができた。
[編集] スペインによる最初の植民地
スペインは1519年以降ヌエバ・エスパーニャに多くの伝道所や砦を維持してきた。1542年にはカリフォルニア北部海岸地域の領有を宣言した。ニューメキシコのサンタフェを除き、ヌエバ・エスパーニャ北部の開拓はその後の155年間進まなかった。バハ・カリフォルニア・スルのロレトは1697年に設立されたが、スペイン王カルロス3世治下のスペインがより北部の開発が必要だと感じたのは、1765年にアラスカから下ってきたロシア人毛皮業者とその後に来るであろう開拓者による侵略の脅威があった時だった。この時点でスペイン帝国は七年戦争の政治的後片付けに携わっており、遙か離れたカリフォルニア植民地の優先度はほんのわずかなものだった。アルタ・カリフォルニアにはフランシスコ会の修道僧が入り、伝道所の軍隊に守られ� � �いた。1774年と1791年の間、スペイン帝国は多くの遠征隊を派遣し、アルタ・カリフォルニアと太平洋岸北西部の探検と開拓を進めた。
[編集] ガスパル・デ・ポルトーラ
1768年5月、遠征将軍ホセ・デ・ガルベスはアルタ・カリフォルニアに向けて4方向、2つは海、2つは陸からの遠征を計画し、ガスパル・デ・ポルトーラが指揮官を志願した。
デ・ポルトーラの陸路遠征隊は1769年6月29日に現在のサンディエゴの地に到着し、そこでサンディエゴ砦を構築した。デ・ポルトーラとその隊は、フアン・クレスピ神父と63人の革の上着を着た兵士達、100頭のロバで構成されており、モントレー湾まで進みたがったので、7月14日に北に向かった。彼等は8月2日に現在のロサンジェルスの地、8月3日にサンタモニカ、8月19日にサンタバーバラ、9月13日にサンシメオン、そして10月1日にサリナス川河口に到着した。彼等はモントレー湾を探していたが、そこに着いた時は認識できなかった。
10月31日、デ・ポルトーラの探検者達はサンフランシスコ湾を見た最初のヨーロッパ人となった。皮肉なことにマニラのガレオン船はこのころまでにほぼ200年間もこの海岸を航行していたが、この湾には気付いていなかった。デ・ポルトーラの遠征隊は1770年にサンディエゴに戻った。
[編集] フニペロ・セラ
フニペロ・セラはマヨルカ島(スペイン領)のフランシスコ会の者であり、アルタ・カリフォルニアの伝道所群の多くを設立した。カルロス3世が1768年2月3日にヌエバ・エスパーニャからイエズス会を追放する命令を出した後は、セラが「統領神父」になった。
セラは1769年にミッション・サンディエゴ・デ・アルカラを設立した。その年遅く、セラやポルトーラ知事と小さな集団が太平洋岸を北に向かった。彼等は1770年にモントレーに到着し、そこでセラがアルタ・カリフォルニアで2箇所目の伝道所、ミッション・サンカルロス・ボロメオ・デ・カルメロを設立した。
[編集] カリフォルニア・ミッション
伝道所は、地元の先住民族にキリスト教の教えを広めるためにスペイン・カトリックのドミニコ会、イエズス会およびフランシスコ会によって造られた宗教的前進基地の並びで構成されたが、この地域に対する昔からのスペインによる領有権主張を確保する付加的利点もあった。伝道者達はカリフォルニア地域にヨーロッパの家畜、果物、野菜、および産業を持込んだが、事実上その日暮らしの状態に留め置かれた。